専門紙「月刊宗教工芸新聞」が提供する
仏壇と仏壇店情報
第2回わが家のお仏壇物語
たま、という猫がいた。三十年も前のことだ。祖母が勤めの帰り道に拾ったノラで、しっぽが極端に短く、睾丸が丸見えだった。それで「たま」。白地に黒しまのおおきなオス猫だった。
その「たま」は仏壇の中で寝る猫だった。昼間、たまの姿が煙のように消える。夕方やっと家の者が探しはじめる。家中を探しまわり、ついに畑の中も名前を呼んで回る。
「ああ、じいさんが死んだから一緒にいなくなっちまったんだな」
祖父が言った。
「そうだねえ。たまはきよきちさんが好きだったからねえ」
夕暮れのなか祖母と祖父は言い合った。喜世吉さんとは、明治四九年生まれの祖父の父親で、当時は初七日が終わったばかりだった。たまはその喜世吉さんにかわいがられていたのだ。たまは、我が家の家猫になったとき、すでに成猫だった。公民館の石垣の上にちょこんと座り、祖母の姿をみると走り寄ってきてそのまま祖母のあとをついてきた。玄関の戸を開けると、まるで我が家に帰ってきたように茶の間にあぐらをかいている喜世吉さんのひざにまたしてもちょこん、とのったそうである。喜世吉さんもその野良猫をたいへんにかわいがった。が、その喜世吉さんももういない。
人は死ぬとどこへ行くのだろう。肉体は土に返るとしても、その魂は? 戒名となって仏壇に納まる、とは思えない。しかし、たまはそこに喜世吉さんの魂と、肉体をもかんじたのかもしれない。たまは夜、家族があきらめたころ仏壇の戸を自分であけて現れた。そう話すのは祖母である。そのたまももう、いない。今は毎日、祖母が仏壇に水をあげ、祖父と喜世吉さんと、そしてたまの思い出に水と花をささげてている。幼きころ、たまにめんどうを見られた記憶は、残念ながら私にはないが、写真の中に確かに残っている。