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第16回わが家のお仏壇物語

佳作「お仏壇に祈る時」 吉川 緑(高知県・73歳)

 軒の方から雀の声がする。カーテンを開けると、東の空から、昇ったばかりの朝日が差している。仏壇に、淹れたてのほうじ茶を供え、今日も一日、お見守り下さいと手を合わせる。

 お線香の煙は、上にすーっと上がり、天井近くでクルクルと回る。こういうふうに真っすぐに煙が上がるのは、圧倒的に朝が多い。他の時間はよく煙が広がったり、前に流れたりする。なぜ朝に真っすぐ上がる事が多いのか、ちょっと神秘的な私の中の「謎」である。

 夕方はお茶を下げて水を供え、今日一日のでき事を仏前に報告し、お経を唱える。うまくいかなかった事も、それを自分たちの糧にできます様にと祈る。

 私の生まれ育った家は浄土真宗だった。仏事を大切にする宗派で、父母も祖父母も、法事だけでなく、日々のお参りをまめにやっていた。小さい頃の私も大人がお参りをするのにくっついて、いっしょに手を合わせていたが、後で私の知らない亡くなった人のことを教えてもらったり、たまによくお参りできたとお供えの饅頭なんかを頂いたりして嬉しかった思い出もある。お供えの菓子は敷いてあった真っ白い懐紙に包まれて、いつものおやつとは違う特別な感じがした。

 子どもの頃の習慣は、大人になってからその意味が分かってくるものらしく、仏壇を拝む事はそのまま自分の習慣になった。嫁ぎ先の宗派は曹洞宗だが、何らの違和観もなく拝んでいる。曹洞宗は道元を祖としているので義父はよくお経を唱えていた。私や子どもたちも義父といっしょに拝んでいたので、私は何年か後には般若心経を憶え、一人暮らしになった時には唱えられるようになった。

 もちろん学生時代や部屋住み時代は仏壇がなく、子育てと仕事等に忙殺されていた間はできる時しかお参りをしなかった。それでも先祖や亡き人たちを拝むという習慣は、常に身体のどこかにあったのだろう。子どもたちが大人になり、仕事を退いた後は、毎日変わらずお参りをしている。

 義父は仏事に熱心で忠実な人だった。朝夕の仏壇へのお参りはもちろん、盂蘭盆には早朝から仏壇を清め、芭蕉の葉を敷いてしめ縄を掛け、野菜や米を供えて夕方にはミソハギの花と水で仏を迎える用意をしていた。私の生まれ育った家も仏壇を拝むことを習慣にしていたが、義父のあまりの熱心さには少しだけ戸惑いも感じていた。しかし家族は皆、当然のように義父の様子を受け入れ、思うようにさせていた。それに、その頃には義父が毎日休むことなく仕事に励む律義の人だと分かってきていたので、私も言葉でなく心でだんだんと義父のふるまいを納得した。普段無口な義父は盆の準備をする時、亡くなった両親や世話になった仏たちを思い出しながら心を込めて迎えようとしていたのだろう。今でも赤紫色の鮮やかなミソハギの花に浸した水を迎え火に振っていた義父を思い出す。

 主人は義父とは違い、毎日朝夕拝むというふうではなく、折りに触れ必要な時に仏壇の前に座った。しっかりと手を合わせ、「よし!」と言って立ち上がる。(何がよし!なのか回りの者はあまり分からない)こういう、あっさり簡潔型で、仏壇の掃除も私に任せ切りだったが、性格から考えると、それはそれで主人らしいお参りのしかたではないか、と思う。仏壇と亡き方々を大切に思っていれば祈り方はそれぞれ違っていい。もちろん私は掃除が大変なのだけど。

 その主人が心筋梗塞で私の見ている前で倒れ、あっという間に帰らぬ人となったのは、今から十七年前、やっと暑さが少し和らいだ九月の始めだった。まだ全くその死が実感できないうちに初七日、四十九日と過ぎて、長男一家と県外の大学に通っていた娘はそれぞれの生活にもどっていった。かつて五人が暮らしていた家は、私と、九十を越した義父の二人になった。

 それでもそれから、義父の世話をすることで気が紛れていたのだろう。故郷の香川には生活がおぼつかなくなり始めた母もデイサービスに通いながら独居していたので、私は二人の面倒をみるのに東奔西走の日々を過ごした。義父は、義母を癌で早くに亡くし、わが子にも先立たれた哀しみの中(私はそのことをもっと思いやってあげるべきだった)ほぼ一年間肺炎で入院治療し、懸命に生きて、翌年息子の後を追うように亡くなった。私は一人になった。

 家族がいて犬もネコもいて、朝夕に料理のにおいがしてにぎやかだったわが家が、たちまち私一人の家になるとは想像もしなかった。子どもたちが巣立ち、年長者を送るのは自然なことだが、そこに主人が逝ってしまうという順当でないでき事が起きたために、私は、するべき事を見失い、身体ではなく心を病んでしまった。

 もう家の中では仏壇しか話す相手がいなかったので、寂しい時は仏壇の主人に向かって、なぜこんなに早く先に逝ってしまったのかと泣いて訴えた。そして仏様に、どうかもう一ぺんだけ主人に会わせてくださいと願った。いくら訴えても、返事は返ってこない。やがて私は、あの世の主人が私を怒っているのではないかと思うようになった。

 亡くなった日の明け方、背中が痛いと言っていた主人の背中を撫でていたが、治らないので病院へ行くことにした。私は救急外来に電話をして予約をとると、どんな自覚症状か自分で言って、と受話器を主人に差し出し、保険証やタオルなどの準備にかかった。主人の「夜中からですね、背中が、」と話す声が聞こえ、後が聞こえないな、と思ったとたん、どおん、と大きな音がし、ふり返ると主人が床にあお向けに倒れていた。救急車で運ばれて緊急処置を受けたが、主人は息をふき返さなかった。

 主人の最期のときに優しくしてあげられなかったことは、誰より私が実感していた。まさか、主人がこのまま逝ってしまうとは、少しも思わなかったのだ。入院しなくてはならないかもとは思っていたが、一人で自宅に残っている義父の心配もしていたくらいだ。

 もう取り返しがつかない。いくら悔やんでも、いくら謝まっても、あの時にもどる事はできないのだから。主人は多分、受話器を手渡された時、すでにかなりしんどかったに違いない。一番頼りにしている連れ合いの態度に、大いにつらい気持ちを抱えて亡くなったのだろうと思うと、主人がかわいそうで、涙が後から後から出てきた。そのことも、逝ってしまった主人は、知る由もない。主人を亡くした悲しみと、詫びる先のない哀しみを、私は噛みしめ尽くし、泣き尽くした。

 この辺りから、私の身体に異変が起き始めた。物を食べても少しもおいしくない、というか味がしない。甘い物を食べても辛い物を食べても白ったの、舌に触れる感覚だけになった。食べる量が減って体重が落ちた。そして、夜眠れなくなった。最初は二時、三時まで眠れず、だんだんと明け方まで眠れなくなり、ついに朝まで一睡もできなくなった。夜眠れずに起きている間はとてつもない不安を抱えてドキドキと興奮し、何度もトイレに立つ。昼間は眠くてぐったりしている。

 私は胃とか内蔵の病気かも知れないと思い、親しい友人に身体の症状を聞いてもらった。その友人は私の顔を見ながら話を聞き、すぐにいっしょに来て、と知り合いの心療内科にその日のうちに連れていってくれた。

 うつ状態です、それも深刻な、と、私より少し若いぐらいの医師は教えてくれた。帰省中の長女は一人で医師の話を聞いた。父親と祖父を亡くしたすぐ後で母親の病の話を聞くのは辛かっただろう。長男には、主人が亡くなった時の事を、すべて聞いてもらった。彼は、しんどかったなあ、と私の顔を見て言い、でもそれは、父さんをいつまでも憶えておく縁になるんやない? 母さんに自分を憶えとって欲しいんやと思うで、と言ってくれた。私は、そうでなくても忘れんけどな、と言った。

 それから十七年、一度も途切れず治療を受け、薬を飲んで、私の病は小康状態を保っている。物の味ももどり、体重は増えはしないが減ることはなくなった。夜はまだ、軽い睡眠導入剤に眠らせてもらっている。

 仏壇には変わらず朝夕手を合わせているが主人に、なぜ逝ってしまったのかと問うたり、許してくださいと言ったりはしていない。ただ、安らかにありますように、そして、私たちを見守って下さいと心から願う祈りに変わっている。

 もちろん、主人だけでなく、拝む仏は仏壇にあまた御座す。曹洞宗の位牌は一人一つずつあるので、わが家の仏壇にはたくさんの位牌がずらりと並んでいる。主人は私の実家の先祖の仏牌も御霊を入れて作ってくれたので、そちらも入って、彼岸の方がよほどにぎやかだ。お参りする時には皆様全員に向かって拝んでいる。しかしやっぱり私にとって主人は別格なのだ。力を合わせて子どもを育て、家庭を守ってきた連れ合いである。お参りの一番最後に話しかけると主人の笑顔が浮かぶ。もういないのに、主人の優しさは、この世に私の心に残っている。思えば、長所も短所も含めて私を理解し、伴侶として慈しんでくれた。生身の人としてはもう会えなくても、この世で縁があったことを幸せだと心から思う。

 私の心の不調は、主人を亡くした喪失感が原因なので、全快はなかなか望めないかも知れない。それでも近頃は、回りの人のちょっとした気使いを感じた時や、おいしい物を食べた時、花が咲いているのを見つけた時などに小さな喜びを感じる事が多くなった。生きるのがつらいのは自分だけではない。皆、何らかの不安や悩みを抱えている。失ったものを歎くのではなく、他の人に嬉びを与えるようでなければと分かってはいるのだけど、まだ助けられてばかりの毎日である。

 それでも、仏壇と向き合いながら、一日一日、生きていこうと思っている。まだまだ、経験を積んだシニアの役立つことは、これからきっとあるだろう。若い人たちの、幾ばくかの力になっていくためにも。

 仏壇と向き合うという事は、家族や身の回りの人との生活の中に、自分を見つめる祈りの場を持つということだ。現に私も、朝夕のお参りで今日の自分を見つめ、小さな喜びの糧を拾って生き抜くことができた。自分をこの世に生んでくれた父母を始め先祖の皆さんと私、そしてこれからの社会を動かしていく子や孫、若い人たちを繋ぐ場でもある。

 仏壇のある部屋はわが家で故一、畳が敷かれていて、サツキやリュウノヒゲが生えている小さな庭に面している。義父が十年ほど、この部屋を使っていた。南の空から差し込む陽の光と、お線香の煙が流れる朝夕が、今の私の安らぎだ。

 お茶や御飯だけでなく、頂き物や料理した物をおすそ分けして供えたり、手紙や伝えたい知らせも供えて分かち合う。時々、ふかし芋やフキノトウなんかも仏壇に上げる。そういう時はなぜかお線香の煙が、一段と真っすぐに上がっていくように思われる。

仏壇公正取引協議会
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